事件だけじゃ終わらない被害の連鎖 — 二次被害・三次被害と向き合う
先日、ある市民団体の関係者とのやりとりの中で、私は思いもよらぬ暴言を受けました。
同じ地域や社会のために何らかの形で関わっているはずの中での出来事でしたが、電話口でのやり取りの中、私が「この事件のことで利用できるところがあれば、どうぞ利用してください」という趣旨の発言をしたところ、突然「馬鹿野郎!ふざけるな!」という暴言が返ってきました。
相手の方は「利用」という言い方が良くないとのお話でしたが、そもそも我々が当事者となる事件のことであり、それを判断するのは、事件当事者であり相手側ではありません。
さらに、その前日の面会後には「ビール一杯付き合ってくれる?」という誘いがありました。
その際の言動について、この行為自体をセクシャルハラスメントだとは申しません。実際にセクシャルハラスメントと言われる行為はありませんでした。
しかし店内に入ってから「これ、セクハラとか言われたら困るな」と笑いながら付け加える場面もありました。
ご自身にはこれらの行為も本来はすべきではないという自覚がありながら誘われたということなのでしょうか。
元をただせば、この市民団体の方とお会いしたのも、事件の発端にセクハラなどがあったことは知っていたはずです。それにもかかわらず、「自分だけは違う」と感じてしまうのが、ハラスメント行為を無意識に行ってしまう要因なのでしょうか。
私は、もちろん仕事で多くの男性と接しますが、このような行為に関しては、通常の常識的な方々は節度を持って接していると感じています。
翌日、その電話での暴言がなければ、面会後に話しきれなかったことを居酒屋で事件の話の延長上で話したこと自体を、私もハラスメントと結びつけて考えることはなかったでしょう。
しかし、ハラスメントとは、たった一度の取り返しのつかない行為だけを指すのではなく、こうした連続した言動の積み重ねが心理的な負担を増幅させ、問題を深刻化させていく側面があるのだと改めて感じています。
こうした連続的な言動は、情報提供者や相談者の心に深い傷を残し、時には声を上げること自体をためらわせてしまいます。だからこそ、私たちはこうした問題に対して、単発的な行為だけでなく、全体の流れや背景も含めてしっかりと向き合う必要があるのです。
私は現在、犯罪被害者支援を行うために色々な相談者の方に関わっています。
被害者の方々からは事件そのものだけでなく、その後に受けるさまざまな困難や苦悩について、多くの相談を頂きました。
「正義のために声を上げたはずなのに、味方だと思っていた人からも傷つけられた」
そんな言葉を何度も耳にしてきました。
今回の出来事は、まさにそのような行為の一つだったと私は感じています。
私たちが求めているのは、完璧な人間関係ではありません。けれども、立場や年齢、性別を問わず、最低限の敬意と節度が守られる社会であってほしいと強く思います。
「冗談のつもりだった」「そんなつもりはなかった」
――そうした言い訳が、何かを変えるわけではありません。むしろ、それらは被害者側の“感じ方”だけに責任を押し付ける構造の一部なのです。
今回、私は相手に対して正式な抗議文を提出しました。これは対立を望んでのことではなく、これ以上の誤解や萎縮を生まないための最低限の対応だと考えたからです。
声を上げることは、時に孤独で勇気のいることです。でも、どんなに小さな声でも、それが“おかしい”と思う心の表れである限り、私はこれからも無視しないでいたい。
同じような経験をした方が、もしこの記事を読んでいたら。
あなたの感じた「違和感」は、決して間違っていません。
一人ひとりの違和感が、やがて大きな社会の変化につながることを、私は信じています。
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